... Aqua Harusora ...
ある老婆のうた
「なんて深いんだろうねぇ、この森は…」
そんなことを呟きながら、老婆は歩いている。
もう、何時間も。
迷っただなんて、思ってはいない。
行き先など決まっていない、自由気ままな老婆の旅。
地図も持たず、自ら好んで見知らぬ土地へと足を傾けている。
故に、迷ったという感覚はない。
もしこの状態を「迷った」というのなら、老婆は旅を始めてからずっと迷っているようなものだ。
A4サイズの紙束を大事そうに抱えて。
ふと立ち止まり、見上げる。
真っ青な空を覆うたくさんの木々の隙間から漏れる、優しい陽射し。
老婆は思わず、目を細めた。
さわさわ、と。
枝の擦れあう音。
思わず歌でも口ずさみたくなる。
…しかし、老婆はかすかに口を動かしただけだった。
手にした紙束を愛おしそうに見つめて。
「……誰か……どうか、この歌を………」
つかの間の出来事だった。
茂みの中から勢いよく、黒いものが飛び出してきて老婆に当たった。
バランスを崩し尻餅をつく老婆。
手にしていたA4サイズの紙束が、緑に包まれた宙に舞う。
「うわ、わわ、ごめんなさいおばあちゃんっ!!」
トーンの高い声が響くのを、老婆は聞いた。
気付くと老婆は、黒い学生服を身にまとった少年に手を差し出されていた。
幼い顔立ち。まだ声変わりもしていない高い声。
まだ中学生くらいだろうと見える。
そんな少年に手をとられ、老婆は立ち上がった。
「大丈夫?おばあちゃん、怪我とかしてない?」
「ああ、私は大丈夫なんだけどね。…もし良ければ、散らばった紙を集めるのを、手伝ってくれると嬉しいねぇ」
少年は辺りを見渡し、散らばった紙達をみて、あわてて紙を拾いにかかった。
「本当にごめんなさい、おばあちゃん…僕、前も見ないで走ってたものだから」
「いいんだよ、この紙達さえ無事なら」
「この紙って……」
自分が拾い集めていた紙に目を落とす。
歪な五線。音符。言葉の羅列。
「おばあちゃんが書いた歌?」
少年が拾い集めた紙には、それらが記されていた。
「そうさ…私の、さいごの歌だよ」
淡々と発せられる、老婆の言葉。
そこからは、彼女の真意は到底読み取ることが出来ないであろう。
「ここからまっすぐ歩いてすぐのところに、僕が通ってる学校があるんだ」
全ての楽譜を拾い終え、老婆と少年は丸太の上に並んで腰掛けていた。
「へえ、こんな森の中に学校があるのかい」
深い、深い、森の中。
学校どころか、人が住んでいそうな気配もない。
「学校と言っても、僕のような身寄りをなくした孤児ばかりが集まった、とても小さな学校だよ」
「…両親がいなくて寂しいかい?」
「ううん。僕はお父さんの顔もお父さんの顔も知らないもの。学校のみんなだって、両親の顔なんて知らない。
顔も知らない人がいないからって、なにも寂しいことはないよ。
…それに、学校にたった一人だけいる先生が、本当のお母さんのようによく面倒を見てくれるし、優しくしてくれるから」
「そうかい」
“先生”のことを話す少年の顔がとても穏やかだったので、その先生は本当に良い“お母さん”なんだろうと、老婆は思う。
「そういえば、さっきは何をそんなに急いでいたんだい?」
「ああ、あれは……」
老婆の問いかけに、少年は苦笑を浮かべる。
「僕はね、指揮者なんだ」
指揮者。
老婆にとって、聞きなれない言葉。
「学校では毎朝、歌を歌うんだ。
ソプラノ、アルト、テノール、バス。その4つのパートを、僕の指揮でひとつにまとめる。
僕は、その歌の時間が一番好き。自分の手で、歌が、音楽が作られていく、その感覚がたまらなく好きなんだ」
「私も、歌は好きさ」
「おばあちゃんも、歌うの?」
「昔は、ね。合唱のようにみんなで歌うのでなく、ひとりで、だったけど。
至上の歌姫だなんて謳われた時代はとうに過ぎたさ」
遠い目で、虚空を見上げる。
そんな老婆の表情を横目に、少年は話を元に戻した。
「一週間後に、僕たちをここまで育ててくれた先生に感謝の気持ちを込めて、歌を贈るんだ。でも、肝心の歌がまだ決まらない。 意見が分裂して、みんなの関係も悪くなる一方だし…何か良い案はないかとがむしゃらに走ってたところだったんだ」
少年は恥ずかしそうに笑みを浮かべた。
「意見が分裂…ね。合唱というのは大変かい?」
「そうだなあ、やっぱりみんなの気持ちがひとつにならないと、良い歌は歌えないから、大変といえば大変だね」
「私はずっと、ひとりで歌ってきたからねえ…“みんなで歌う”っていうのが、よくわからない。ひとりで好き勝手に歌うのとは訳が違うんだろうけど」
「それぞれの歌声に、それぞれの想いをのせて、遥か彼方まで響き渡らせる。独唱も、合唱も、根本は同じだよ。
ただ…独唱の歌は、その人だけの歌声で成り立つ。でも、合唱は、みんなが集まらないと、成り立たない。
ソプラノの主旋律があって、アルトのハーモニーがあって、テノールの響きがあって、バスの支えがあって、それらをまとめる指揮があって、初めて成り立つ。 …そこが大きな違いかなあ」
音楽のことを、口で説明するのは難しい。
そう言って、少年は笑った。
その少年の笑顔を、老婆はしばらく眺めていた。
そして、何か決心したように、腰掛けていた丸太の上から立ち上がった。
「どうか、この歌を…おまえさんの学校で歌ってくれないかい」
手にしていた楽譜を差し出す。
少年は、面食らって素っ頓狂な声をあげた。
「え…でも、これおばあちゃんが書いた………おばあちゃんの歌でしょう?」
「私は、もう駄目なんだ。こんな老いぼれてしまってねえ、昔のように歌えはしないさ。
だから、この私のさいごの曲を歌ってくれる人を探して、今まで旅をしてきたんだ。
…その旅も、今日で終わり。これで心置きなく逝ける…」
「そんな…そんな大切な歌を、どうして僕に…」
「私の歌を、合唱で歌うとどうなるのか。試してみたくなったんだよ」
ニッと笑みを浮かべる老婆。
つられるように、少年も笑った。
深い、深い森。
そんな森に、ある歌が響き渡っている。
木々の枝の隙間からのぞく、小さな学校。
そんな学校から、ある歌が聞こえてくる。
それは、この世に生を受けた喜びだとか。
それは、逆境に立ち向かう勇気だとか。
それは、どん底の絶望だとか。
それは、こらえようのない怒りだとか。
それは、好きな歌を口ずさむ楽しさだとか。
いろいろな想いが詰まった歌。
歌詞では伝えきれない想いを、メロディーで補い。
メロディーで表現しきれない部分を、ハーモニーが助け。
それらを、深みのある低音が支える。
そして全体を、前の指揮台に立つ少年が束ね、まとめあげる。
こんな歌を、老婆は今まで聞いたことがなかった。
否…確かに、自分が作った歌なのだ。
歌詞も、メロディーも、自分が作ったものなのだ。
何がこんなにも、老婆の歌を変えたのだろうか。
…それはきっと、前で指揮を振る、少年の力なのであろう。
広げられた少年の手が、静かに弧を描きながら握られ、そこには余韻だけが残る。
老婆の瞳から、静かに、一滴の涙が零れ落ちた。
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