世の中には青であったり赤であったり金色であったり、数々の色を持った森がある。
その中で、他のものとは別の一線で区切られているような森……透明な森があった。
人はそれを、硝子、もしくは鏡の森と呼ぶ。
「ねぇ、お祖母様……またあのお話をしてちょうだい」
「硝子の森の話かね? 」
「えぇ、私あのお話がとっても好きなんですもの」
その森には、誰も住んではいなかったがそれでも唯一つだけ誰もが知っている物語があった。


鏡の先で会いましょう


キラリと光を反射する、硝子細工のような森。
普通の森が成長を遂げて大きくなり、または死滅して小さくなっていくなかでこの森だけは全く変化を起こさなかった。
それは森の素材の問題であり、仕方の無いことではあったが。
木ではない、人工的に作られたとしか思えない森。
世界に唯一つしか存在しないその森に住む者は少ない。
そして、その森に住む者達は。
決して、触れ合うことができないでいた。


「ミラージュ」
「…ベルゼ? 」

 白銀の髪を揺らしながら、一人の少女が光を反射する鏡を見つめる。
するとそこに、同じく白い……だが白銀というよりも白金といった方がいいような青年の姿が映った。
 少女がかけよると、その姿は大きくなって見えてくるもののその鏡に映る青年の本当の姿は見えない。
 はぁ、と一つ溜息をついた少女はその硝子の目の前に立って一度右横を見つめた。
 そこには、巨大に聳え立つ硝子の壁がまるで大樹のように鎮座していた。
 いや、実際にこの壁は木のつもりなのだろう。
 何故ならこの壁は、この森の外に住んでいる者には木にしか見えないのだろうから。
 鏡に映る青年は、ペタリと硝子に触れているようだ。

「どうしたの? 昨日と同じところにいるようだけれど」
「あぁ、どうやらあの後進んだ道は行き止まりだったらしい」
「そう……」
「もしかしたらまた壁が移動したのかもしれないな」

 そうしてベルゼと呼ばれた青年は決して触れることのできない少女の現像に笑いかける。
整った顔に浮かび上がる柔らかい笑顔に、ミラージュと呼ばれた少女もまた笑い返した。
 浮かべた笑顔を伝えるのは、直接的な目ではなく鏡に映る現像を見るという間接的な目ではあったが。
 二人はしばらく笑いあった後で、少し名残惜しそうに自分達の周囲を見渡した。
 そこには、人の気配などまるでなかった。
 そして、もう一度鏡に視線を移し……今どれぐらい離れているのかすら教えてくれないほどに透明に映るお互いの姿を見た。
 二人は、同時にお互いの顔を見て同時に名前を呼ぶ。
 そしてやはり同時に笑うと、少しばかり名残惜しそうに手を振った。

「じゃ、また明日」
「うん。必ず、会おうね」
「あぁ、もちろんだ」

 二人はそう言い合うと、お互いに鏡に背を向ける。
 そしてベルゼは立ち止まったまま目を閉じ、ミラージュは天を仰ぎありったけの力をこめて歌いだした。
 それがベルゼの耳に入ると、彼はようやく歩き出す。
 これが、彼らの日常だった。

 鏡の森で、一人の人間が別の誰かと触れ合う方法はただ一つ。
 それは、たまに動き迷路のように行く手を塞ぐ硝子の森の中を潜り抜け偶然なり必然なり出会いに行くことなのである。
動かない限り、決して会うことはなくそれゆえにこの森に生きる者達の数は年々減少の一途を辿っていたのだった。
 そしてある日偶然鏡越しに出会った少女と青年は、出会うために歩き出した。
 少女は毎日同じ場所で歌を歌い、青年に自分の居場所を知らせ青年はその歌を聞きながら少女のいる場所を目指す。
 そんな生活が始まってから、もう三年以上が経過していた。
 二人は、まだ出会えない。
 少年だったベルゼは青年になり、今少女ともいえるようなミラージュの姿も大人のそれになろうとしていた。

 日増しに、焦りを募らせる青年と少女。

「頑張って……」

 だが、それをお互い顔に出すことはなかった。
それは相手を不安にさせることになることであるし、青年は少女が必死に歌っていることを。
 そして少女は青年が身を削っていることを知っていたのだから。
 互いの体の疲労を思うと、とても言えなかったのだろう。
 だが、どうしても二人になると。

「はぁ……」

 ミラージュは、きっかり一時間経った頃に歌うのを止めてその場に座り込んだ。
その場所には、小川のせせらぎも鳥のさえずりも聞こえない。
 ただ鏡が惑わす硝子の世界で、一人ぼっちである。
 白銀の髪が肩を通って流れてのを横目にしながらミラージュは疲れた体を軽く伸ばす。
「ベルゼ……」
 そうして彼女にとって最も愛おしい人の名前を呼んだ。
不思議と、力が湧く感覚を感じるミラージュ。
 しかしそれでも、一人になると言わずにはいられない。
「早く来て……ここは、寂しいわ」
 ベルゼがいなければ、決して出すことのない声を出しながらこの三年間口にしなかった言葉を口にした。
 いつベルゼに会って話す時も、ただ笑顔を浮かべて頑張ってきていた自負を持っているミラージュとしてはそれは手痛いことではあったが。
 一時間ほど前に会ったばかりのベルゼの姿を、頭に思い浮かべると暖かいその声が頭を過ぎった。
 そして、彼女は立ち上がり彼と約束している十五分の休憩を終えて再び歌いだそうとして。

「…待って、どうして私は」

 今まで気づけなかったことが馬鹿なのではないかというほどに、致命的なことを思い出し。
 ミラージュは、約束の時間を終えても歌いだすことはなくただただその場に呆然と突っ立っていた。
 その時長い白銀の髪が、鏡に映って煌いた。


「…ミラージュ? 」

 その時、ベルゼも同じように休憩を終えて立ち上がったところであった。
だが、いつも聞こえるはずの歌が聞こえない。
 この三年以上もの時で一度もなかった事に、彼は困惑しながら近くの鏡を見渡して彼女の姿がないかどうか探した。
 だが、この日はどうしてもミラージュの姿を映す鏡を見つけることができず。
 くそ、と一度悪態をついてからベルゼは焦りを落ち着かせようと一度深呼吸をした。
「一体どうしたんだ……ミラージュ」
 ミラージュの名前を呼ぶと落ち着くのか、彼は柔らかい表情を取り戻して天を仰ぐ。
 しかしそこにも、横から枝分かれをして伸びたかのような硝子があるのみで結局空を見ることなく彼は自分の顔を見る羽目になった。
 見えない空にも、聞こえない彼女の声にも焦燥感が募る。
 だが彼の焦燥は、決して彼女が休憩を終えても歌を歌わないことへの苛立ちではなく。
 もしかしたら、別の誰かがミラージュと出会ってしまったのではないかという考えが大きく浮かんできたからだった。

「ミラージュ、ミラージュっ! 」

 焦りのためか、届かないはずの声で叫ぶ。
 届くのは、彼女が歌う歌声だけであるのに。
 高らかに伸びるあの声だけが、ベルゼとミラージュを繋ぎ合わせるものであったはずなのに。
 彼は、叫ばずにはいられなかった。

 もしもミラージュが出会った人物が、男であったなら。
 彼女は、子孫繁栄のために無理矢理にでも子をなすことになってしまうだろう。
 それが嫌であったからこそ、ベルゼは急いでいたのであるしミラージュも必死になって歌っていたのである。
 だがその歌が、他の誰かを引き寄せていたのだとしたら?
 考えれば考えるほど、ベルゼの中の焦燥感は強くなる。
 苛立ちにまかせて、手近な硝子を叩きつける。
 すると。
「………っ!? 」
 パリンッと甲高い音を立てて、その硝子は呆気なく叩き割れた。
 見た目は、普通の木と同じぐらいのものであろうものであるのに。

「俺は、どうして……」

 それを見て、彼は呟く。
 そして、同時に。

「ベルゼっ! ベルゼ!! 」
「…ミラージュ!? 」

 ベルゼは、あの白銀の髪をたゆたわせていた少女の珍しく興奮した様子の声を耳にした。
 顔を上げ、辺りを見渡すもののそこに彼女を映す鏡はない。
「どういうことだ……? 」
 鏡が姿を映さないほどの場所にいるはずなのに、どうして声が届くのか。
 いや、それを考えるならば何故。
 今まで、彼女の歌声が途切れたことがなかったのだとベルゼは考え絶句した。

「ベルゼ! わたし、私気がついたの! この森は―――」
「あぁ……ミラージュ、この森は……」

 強く響く声に、放心したような顔のベルゼが頷く。
そして彼女が先に続けた言葉を聞いて、壊れたように笑い出した。
 その笑い声は、どこにいるのかも分からないミラージュにも届く。
 彼女はその笑い声に、ベルゼも気がついていたのかもしれないと思いながら誰にも聞こえないように先程続けた言葉を囁く。

「この森は全て嘘しかないわ……鏡も硝子も、距離も音も」

 すると、その言葉に応えたわけではないのであろうがベルゼの声がミラージュの耳朶を打った。
それは、決定的なことで……硝子の森を響かせるであろう言葉であった。
 決して、強くはない言葉ではあったが。
 ベルゼは、この森を覆う全ての嘘をまるで独り言のように呟いた。
 辺り一面を、硝子の光の乱反射によって覆われるもののそれで目を閉じることもない。

「遠くにいるなら、ミラージュの声も歌も届かないはずだ。遠くにいるなら、俺と会話ができるはずがない」
「うん……」
「遠くにいるなら、いくら硝子だらけのこの森であろうと声は届かないはずだろう。そして……誰も」

 聞き慣れた、大切な人の声を聞き漏らすことなく頷きながらミラージュは「そう」と強く相槌を打った。
「誰もそれに気がつかなかったから、私達も見落としていた」
「あぁ……」
 そうして少し声を大きくして言うと、ベルゼが疲れたようにそう言ったのが聞こえた。
 囁くような声が聞こえること、それは二人が近くにいること。
 決して、離れてなどいないこと。
 ミラージュは心の中で呟き、同時に、自分の真正面にあった硝子が割れる音を聞いた。
 太すぎて、決して割れることがないと思っていた硝子が呆気なく砕け散る。
「な……っ」
 驚き、目を見開くミラージュの目の前に黒い影が浮かび上がる。
それは、白のような淡い金髪を揺らしながら穏やかな笑みを浮かべた。
 だが、唐突のことでミラージュにはそれが誰なのかが理解できずにいる。
 鏡に映る姿を、あれほど見ていたというのに。

「ミラージュ」
「あ、あ……」

 声にならない声を上げている間に、目の前に佇む青年は少女の名前を呼ぶ。
 瞬間、少女の頬をつたう涙が砕けた硝子の破片の上に落ちた。
「ベルゼ! 」
 呼ばれた声に、ようやく頭が人影の正体を認識したようだ。
 駆け寄り、力一杯青年を抱き締めると青年の少女を力強く抱き締めた。
 壊れないようにという配慮をしていられなかったのか、腕にこもる力に少女が微かな痛みを覚える。
 だがそれすらどうでもいいというかのように、二人は三年越しの逢瀬を埋めようとその場から決して動かなかった。



「それから、二人は出会った時の様に必要なだけの硝子を割りながら森を出て幸せに暮らしましたとさ」
「ねぇ、お祖母様? 」
「なんだね? 」
 硝子の森に伝わる二人の男女の恋物語を聞き終えた少女は、自分の祖母に不思議そうに尋ねた。
 すると、穏やかな老齢の瞳が少女を捉える。
 少女を見つめている老女は自分の少しくすんだ白銀の髪を指先で弄びながら、少女の言葉を待った。
「どうして二人は、三年も気がつかなかったのかしら? 馬鹿でもない限り、気がつくはずでしょう?」
「あぁ、それはね……」
 そして、恐らく聞かれるであろうと予測していた言葉を本当に言われて楽しそうに微笑んだ。
 窓の外を見ると、そこには彼女と長い年月を共に過ごしてきた老人がひなたぼっこをしているのが見えた。
 昔は金の割合が強かったのであろう白髪が、風が吹くたびに揺れるのが見える。

「あの森に住み、出会って来た人たちが誰もそれに気がつかなかったからなんだよ」
「他にも人がいたんだ」
「えぇ。そして彼らがしなかったことだからと先入観で無理だと決めつけていたんだよ、あの二人は」
「ふぅん……」
「届いていた声も、歌も、案外弱かった硝子の存在も全て見落として。気がつくのに随分と長い時間をかけてしまったんだね」

 興味深げに頷く孫娘に説明してやりながら、老女は眠たくなったのか軽く目を閉じた。
 目を閉じた中に浮かぶのは、まばゆいばかりに光を放つ硝子の森。
 もう何十年も人が立ち寄ることのなかった場所を思い返し、彼女は一つ息をついた。
 すると「あとね」と少女が続けたので、老女は一度目を開けて「何だい? 」と尋ねる。

「あの物語に出てくる人って、お祖父様やお祖母様みたいよね。だって、同じ名前なんですもの」
「…そうだね」
「ねぇ、お祖母様。お祖母様はお祖父様とどこで出会ったの? 」

 少女の問いに、老女は淡く微笑みながら棚に置かれていた写真立てを盗み見た。
そこに飾られている写真には、それぞれ名前が書かれている。
 それは老女の孫であり娘であり息子であり、老女と老人自身の名前もあった。
 老女は、自分の名前と老人の名前に目を走らせる。
 書かれていたのは『ミラージュ』と『ベルゼ』という文字。
 老女が語って聞かせた物語の主人公達と、全く同じ名前である。
 孫娘が興味を持つのも無理はない。
 そう思い、老女はもう一度老人の方に視線を走らせて誰にも聞こえないように呟いた。

「硝子の森よ」

 それを、孫娘が聞き取るより前に老女は一度目を閉じ「その話はまた後でね」と眠りに就いてしまった。
 孫娘も、それを邪魔する気はないのか渋々老女に「おやすみなさい」と言い毛布をかけてやる。
 日向に眠る老人と、暖かな毛布の中で眠る老女は二人同じ夢を見る。
 鏡の森、光に包まれたその場所で初めて出会えた逢瀬の時の夢を。


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うちのサイトの移転記念に、櫻さまからお祝い品をいただいてしまいました。
upが遅れてしまって本当に申し訳ありませんでした…!
「この森はこういう森」というように記憶にきざまれてしまっているから
気づけるものも気づかなくなってしまったんですよね。
身近なこと程わからないっていいますし(笑)
お祖母さまが最後に「硝子の森よ」と呟くところが好きです。
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